市河晴子 穂積陳重・歌子の三女で市川三喜夫人 「穂積歌子日記」の明治35年11月17日(火)には『晴子の知り得る英語数えしは百語あまりありたり』と記されていてお孫さんで編者の穂積重行氏の補足説明によると「晴子は後年英語学者 市河三喜の妻となり、才気と語学力を駆使しかなりの著作を行った」とある。7歳で既に英語を学び、両親に連れられて歌舞伎や演劇を鑑賞し、錠二夫妻とも顔馴染みであり、錠二の娘達とも親しかったはずである。櫻井家には錠二の留学時代を知る記録が余りなく、この追悼文から祖父の留学時代の一端を垣間見ることが出来、うれしく掲載することとした。 また、「穂積歌子日記」から「演劇改良会」が明治9年に末松謙澄の主唱で発足し、和田垣謙三、菊池大麓、櫻井錠二もそのメンバーで在ったことが記されていた。東京大学の教授達の間にもシェイクスピア劇など原語で演じられたと聞いていたがそれが証明されたようである。 |